白人至上主義をめぐる衝突。そもそもリー将軍は人種差別の象徴なのか?
トランプによる「リー将軍」でゆがめられたもの
リー将軍自身は奴隷制反対派だった
ロバート・E・リーは1807年に独立革命戦争の英雄の息子としてヴァージニア州で生まれた。合衆国陸軍士官学校を次席で卒業し、メキシコとの米墨戦争で戦功を挙げる。
1861年に南軍がサムター要塞を攻撃して南北戦争の火蓋が切られると、合衆国連邦軍総帥ウィンフィールド・スコットは、リンカーン大統領に対して、当時54歳のリーを連邦軍最高司令官として推挙した。 スコットもリーも、連邦から離脱して南部連合に加わり反旗を翻したヴァージニアの出身だった。
しかし、リーは奴隷制について「道徳的にも政治的にも悪である」と考え、ヴァージニアの連邦離脱についても「合衆国憲法の制定者たちは、連邦の構成員自身によって連邦を崩壊させるために、多大な労力、知恵、忍耐を結集して憲法制定にあたったのではない」と反対していた。 だが、ヴァージニアは離脱を決めるとすぐに、リーに軍指揮官就任を要請した。この要請を受けたリーは、スコットの推挙を断り、合衆国陸軍除籍を申し出た上で、ヴァージニア軍指揮官となり、やがて南部連合軍の総帥となった。
その際「私は自分の郷里の肩を持つか反旗を翻すか、いずれかの立場を取らねばならない。どちらかをどうしても選択しろというのであれば、私は故郷を、家族を、そして子供を裏切るわけにはいかないと答えるしかないだろう」と述べたという。 軍人としての経験から、リーは南軍の形勢が不利であることも事前にわかっていた。連邦に忠誠を尽くさなければならない一軍人としての立場、自らの政治的、道徳的信念、そして郷里や親族への愛着……リーはこれらの間で葛藤を抱き、苦渋の決断として南部連合軍に参列したのである。